天保の初め、医学研究実験所(医学所)設立のため、
賀屋恭安・能美洞庵・青木周弼等の医者が請願、
1840年(天保11年)9月、8丁の南園に医学所を設けることを藩主毛利敬親公は許す。後医学館と改める。
1849年(嘉永2年)9月、青木研蔵は藩命にて長崎に「牛痘接種法」の修行に出張し、
12月帰藩し医学館にて種痘を始める。同年新明倫館完成、明倫の外校となり、医学館を済生堂と改め、
まもなく、済生堂を好生館と改め、医学就業規則を制定する。
1856年(安政3年)、好生館を明倫館に移し好生堂と改称し、再び南園にかえり、
更に明倫館に移されたが好生堂に来る患者が多く騒がしく、
1861年(文久元年)2月25日、商人宗像家の所有地を藩が買い上げて新築移転す(瓦町1番地現在地なり)。
当時の医学教授者は、能美隆庵・田原玄周・松島瑞益・河村養信・烏田良岱等他多数なり。
1863年(文久3年)11月12日、藩主敬親公三条実美を伴い好生堂に御成り、堂内視察さる。
時には村田蔵六後の大村益次郎も好生堂に来り教授す。
血と血で洗いし幕末の激動期には萩絵堂の戦・下関攘夷戦・四境の緒戦に従軍した負傷者や
羅災者達を診察治療に奉仕せし功績は多大なり。
好生堂は維新の大変革にも在置されていたが1865年(慶応元年)、
好生堂を山口に移し好生局と称し萩の好生堂跡に萩病院を設ける。
1872年(明治5年)、学制が頒布され好生堂に新堀小学校を開校する。
1885年(明治18年)、学区改正により明倫小学校に合併する。
1876年(明治9年)10月26日の萩の乱(前原騒動)には、多数の負傷者を診察治療に従事す。
1889年(明治22年)、在萩医家の親睦団体の社長村田文庵は、
阿武郡三島郡長の口羽良介(旧藩士)の斡旋により、
村田文庵の管理下になる。
新堀小学校の敷地を無償でゆずりうけ、
塩屋町の多越神社付近の廃寺(鶴林寺か)の堂を移し建てて好生堂とした。
1899年(明治32年)1月から6月まで阿武郡役所、7月からは看護婦養成所が借用、
1899年(明治32年)11月から県立萩中学校が長屋借用して寄宿舎とし、1901年(明治34年)まで使用す。
1903年(明治36年)10月、萩修繕女学校が好生堂を借用。
1918年(大正7年)8月、阿武郡が萩看護婦講習所を開設し、
郡制が廃止された後は医師会が継続し1925年(大正14年)まで行う。
萩の教育に貢献するところ多大なり。
1930年(昭和5年)、老朽化した本館は新しく建て変えられ、門・長屋も修理して昔のまま保存された。
1952年(昭和27年)5月2日、未明建築依頼90年間無事でありし旧藩医館と好生堂の遺構は、
不幸にも管理人の炊事場より出火し全体の3分の2を焼失す。
残りの部分は玉木病院の病室に改造され使用する。
1954年(昭和29年)4月、萩市医師会は附属准看護婦養成所(2年制)を好生館(堂)に開所す。
1962年(昭和37年)2月、萩市医療会館が江向に新築されたので、
萩医師会と附属看護婦養成所は、萩市医療会館に移転す。
1962年(昭和37年)4月、高等電波学校無線電信科(2年制)が北古萩に創設され、
1963年(昭和38年)、好生館に無線工学科増設使用、1965年(昭和40年)2月、松本市に学舎新築し移転する。
激動の幕末時代より明治・大正・昭和の幾星霜の間幾多の変転の歩みはあれども、
社会的に多大な業績を残せし建物は惜しくも老朽激しきため遂に解体、
この歴史ある好生館(堂)の跡は土台と石垣と鬼瓦数枚、ありし日を偲ぶのみ。
1974年(昭和49年)3月、玉木英介この地を縁あって修得す。
現在、再び医療の地として伝統を受け継ぎ、その重責を思い、萩・長門北浦地区の発展を祈願す。
1989年(平成元年)12月10日
外来病棟新増築竣工式典
文責 玉木英介