烏田家と玉木病院
防長醫學史(田中助一著)に記載あり。
「旧藩時代あまた名医の輩出した防長の医界に、
数代にわたって名医を続出した家が2軒ある。
1つは、漢方内科をもって萩藩主の待医をつとめた、周防三田尻の能美家、
1つは、西洋外科をもってきこえた、長門萩の烏田家である。」
烏田家史
初代 烏田智庵正通先生
1639年(寛永16年)7月5日~1698年(元禄11年)12月19日
1639年(寛永16年)
烏田家の始祖は、約370年前の烏田智庵先生の誕生に始まる。
1663年(寛文3年)
海外文化の門戸である長崎におもむき、
当時西洋流の外科をもつて名高かつた吉田自休先生の門に入られる。
入門後いくばくもなくして先輩をしのぎ師匠の代診をゆるされるほどとなり、
九州の諸大名からも招聘せられたが萩藩以外にめしつかえる気持ちはないといつて辞退せられる。
帰萩後は吉田流外科を主として開業、あわせて道三流の内科をかねおこない、
その名は防長二州はもとより遠国まで聞こえ遠くより来たりて入門するものはなはだ多し。
1690年(元禄3年)
第3代藩主毛利吉就公により番医の列に加わる。
後世に名をなすべき機会を捨て萩に帰られ、当時としては周防屈指の名医であり、
かつまた日本有数の外科医であったと思われる。
(防長医學史)
1698年(元禄11年)
60歳にて没せられる。
2代目 烏田智庵貫通先生
1689年(元禄2年)~1768年(明和5年)5月14日
京都において当時有名な外科医浅井東軒先生の門に入り主として経路の法を学ばれ、
そのかたはら本草学の権威松岡恕庵先生について本草学および物産学を学ばれる。
1708年(宝永5年)
第5代藩主毛利吉元公の侍医に任ぜられる。
1724年(享保9年)
萩藩の文化向上のため長崎への朝鮮人護送役を仰付られる。
1737年(元文2年)
周防長門の物産を調査した「長防産物名寄(両国本草)」、
萩の地理沿革、名所旧跡を詳述した「萩古実未定之覚(長周叢書)」をあらわされる。
1750年(寛延3年)
大内氏の盛衰を記した「築山屋形盛衰記」をあらわされる。
1756年(宝暦6年)12月
第7代藩主毛利重就公より屋敷を拝領す。
1768年(明和5年)
80歳にて没せられる。
拝領された瓦町49番地の旧烏田家邸宅(江戸時代中期の武士住宅)は、
2011年(平成23年)1月、本館改築工事着手まで現存し、
2012年(平成24年)10月、本館多目的室として復元、使用す。
3代目 烏田智端公通先生
1740年(元文5年)~1804年(文化元年)8月24日
貫通先生の長男、家業を継がれる。
1804年(文化元年)
65歳にて没せられる。
4代目 烏田智庵通公先生
1787年(天明7年)~ 1832年(天保3年)12月4日
1816年(文化14年)
江戸において医名天下に高かった大槻玄沢先生の芝蘭堂に入門、
ローレンツ・ハイステルの外科書の翻訳に参与せられる。
1821年(文政4年)10月
「瘍医新書」「八刺精要」翻訳に参校せられる。
1824年(文政7年)3月
江戸において第11代藩主毛利斎元公の侍医に任ぜられる。
城東千住にて解剖会を主宰せられる。
1832年(天保3年)
46歳にて没せられる。
5代目 烏田静庵通信先生
1816年(文化13年)~
1833年(天保4年)1月28日
養子となり阿蘭陀流外科を継がれる。
病身にてまもなく退身、没せられる。
6代目 烏田良岱先生
1804年(文化元年)~1877年(明治10年)8月17日
順天堂大学の創始者、佐藤泰然先生の門に入り外科を学ばれ、
また高野長英先生に蘭学を学ばれる。
1840年(天保11年)9月
萩藩に医学所が創設され、医学係り(外科教授)に任ぜられ、
毎月9の日に講義せられる。
1840年(天保11年)11月
「解体新書」を翻訳講義、その実習に解剖せられる。
1849年(嘉永2年)12月
萩藩にて種痘始まり、青木周弼先生、赤川玄悦先生、久坂玄機先生等とその普及につとめられる。
青木家、木戸家の前身である和田家と親交深く、木戸孝允公の
良岱先生へ宛てたる眞筆現存す。
1865年(慶応元年)
四境の役(長州征伐)に際しては従軍医の監督長として出征せられる。
生前逸話にとむ。
貧富の両方の急患があつた時には必ず貧者から診察されたので、
門人が尋ねたところ「金持ちは何人もの医者をよぶことが出来、配剤の余裕があって急変すくないが、貧乏人は急迫多く自分をまつほかない、それで先にみるのである。」と答えられたといふ。
また、他の医者と対診しても決して他医のことをわるくいはず、
場所をかへて意見を述べられたので医者仲間からも尊敬せられたといふ。(防長医學史)
第13代藩主毛利敬親公より晩年も元気さかんなるを喜され「鉄脚」の号をたまはつた。
1877年(明治10年)
74歳にて病没せられる。
玉木英三は烏田 良岱先生の門下生なり。
7代目 烏田圭三先生
1830年(天保元年)~1883年(明治16年)11月 30日
1853年(嘉永6年)5月
当時有名な蘭方医伊東玄朴先生の門に入り、刻苦精励全国からあつまつた俊秀に伍して、医学および蘭学を研鑽せられる。
1859年(安政6年)9月
会津の舎密所の主任へ就任後、幕府の蕃書調所の助教授に招聘せられたが、木戸孝允公が萩藩に必要な人物として反対、萩に帰郷せられる。
1879年(明治12年)
隣地に御部屋を新築、今に現在す。先生は明治維新に際し、知友の多くは東京において各方面に名をなす、中央への志を抱きながらも萩にある年老いた養父のことを思い、ついに栄達の希望を捨て、孝道をまっとうされる。当時の心境、実兄哲造にあてた手紙にあきらかなり。
好生堂都講となり、医学および蘭学を教授せられる。
1868年(明治元年)
鳥羽伏見の戦いに際し設立した病院の院長となつての功労あり、
山口好生堂の医院長に任ぜられる。
1874年(明治7年)
三田尻の医学校校長及び院長を勤続される英名あり。
しばしば人体解剖をおこなひ、洋書の翻訳も数々せられる。
その間、玉木英三は老先生の補佐を勤むる。
1876年(明治9年)10月
前原一誠が萩に兵をあげるや、三田尻より高弟2人を率いて急遽萩に帰り、蓮池院を仮病院にあて院長となり官軍の負傷者を救護せられる。
そのため前原党の治療にあたつた6代目良岱先生が罰せられなかつたといふ。
第13代藩主毛利敬親公の侍医をつとめられ、殿中に出入りし薨去の際には最後まで診療される。(防長医學史)
1883年(明治16年)
54歳にて病没せられる。
8代目 烏田多門生生(69歳にて逝去)
1866年(慶応2年)6月11日~1934年(昭和9年)6月21日
1866年(慶応2年)
烏田圭三先生の2男として生誕。
1899年(明治32年)
第1高等学校医学部(千葉醫科大学の前身)を卒業され、警視庁にながく奉職せられる。
1934年(昭和9年)
69歳にて病没せられる。
玉木家史
初代 玉木英三
1849年(嘉永2年)~1896年(明治29年)9月5日
玉木キク
1859年(安政6年)5月21日~1940年(昭和15年)11月25日
烏田良岱先生の門弟玉木英三は晩年の門下生なり(晩成と称す)。
先生の子息に病弱な方おられ特に御世話し、
先生之を徳としまた玉木英三を愛せらる。
この間、玉木英三は大阪へも遊学す等の事もあり、
恩師の烏田家屋敷へ帰り外科を開業す。
烏田家の子孫は東京へ移られ医業は玉木が継ぐ。
その業隆盛にして門前市を為す状況なりと記録あり。
1887年(明治20年)
烏田家屋敷を同家より買受け、玉木私宅となる。
又隣地医王山一乗院敷地をも併せ買収し、玉木醫院となる。
1887年(明治20年)12月
第1回山口県医会、山口町にて開催さる。
英三、萩医会幹事に就任。
1896年(明治29年)
48歳にて病没す。
2代目 玉木焏輔
1871年(明治4年)7月8日~1946年( 昭和21年)11月23日
玉木モト
1881年(明治14年)3月11日 ~ 1945年(昭和20年)4月10日
1871年(明治4年)
山口県大津郡日置村田村国耕斎の二男として誕生す。
1891年(明治24年)
第五高等医学部(長崎大学医学部の前身)に入学す。
1893年(明治26年)11月20日
2カ年間特待生として優遇され首席にて卒業す。
1893年(明治26年)12月
長崎縣立病院にて勤務す。
1895年(明治28年)6月
郷里にて内科及外科(後内科専任)にて開業す。
1897年(明治30年)3月
英三長女モトの養嗣子となり、その業を継ぐ。
初めは玉木本宅内に於て診療を開始し後、
一乗院跡へ病棟2階建て2棟を構築す。
1913年(大正2年)5月10日
許可を得て玉木醫院を玉木病院と改称し、その院長となる。岡山大学医学部との御縁をもつ。
1918年(大正7年)
病院本館を旧烏田家邸宅と病室との中間へ新築し、
玉木病院の基礎をつくる。
今に現存せる大正初期の病院建築として日本近代建築総覧に記載あり。
1920年(大正9年)3月
阿武郡医師会会長就任す。
1923年(大正12年)9月1日
関東大震災あり玉木病院看護婦長、副婦長を派遣す。
1946年(昭和21年)
76歳にて病没す。
3代目 玉木正夫
1901年(明治34年)10月1日~1968年( 昭和43年)1月4日
玉木トモ
1905年(明治38年)12月6日~1968年(昭和43年)9月12日
1931年(昭和6年)3月
九州大学医学部卒後、第一内科入局す。
1934年(昭和9年)5月
焏輔病に伏し帰郷す。
1940年(昭和15年)2月15日
焏輔隠退(70歳)と同時に院長就任す。
1944年(昭和19年)9月1日
戦時中の事、玉木病院の土地建物一切を日本医療団に譲渡し、
私立玉木病院日本医療団萩病院と改名す。
院長を拝し、内科、外科、産婦人科、放射線科の診療科目、
病床50となる。
1946年(昭和21年)1月
萩市医師会副会長就任す。
1946年(昭和21年)11月
玉木 焏輔没す。
1951年(昭和26年)4月
終戦後世は移り変わり、
日本医療団より買い戻し玉木病院として復帰す。
亡父の苦労瞼に浮かぶと英介の記録あり。
1965年(昭和40年)
山口県公示第123号により救急指定病院として公示す。
1966年(昭和41年)
病院本館西に、鉄筋病棟及び手術室を建築す。
1966年(昭和41年)
病床変更施行す。(一般病床124床、その他結核病床)
九州大学医学部、熊本大学医学部、久留米大学医学部、
各教室との御縁をもつ。
1968年(昭和43年)
66歳にて病没す。
4代目 玉木英介
1934年(昭和9年)1月20日~2001年(平成13年)6月30日
玉木房子
1941年(昭和16年)7月10日 ~
1961年(昭和36年)3月
久留米大学医学部卒後、第二外科入局す。
1961年(昭和36年)9月
玉木トモ病没す、その時医学博士論文提出、締め切りの日なり、
医師として育てられし両親の死別にも逢われず、
親不孝痛恨なりと記録あり。
1968年(昭和43年)1月
院長就任す。
1969年(昭和44年)7月
医学博士の学位授与。
1972年(昭和47年)
人工腎臓室を新設す。
1974年(昭和49年)3月
隣地長州藩医学館、好生堂跡地を収得す。
1977年(昭和52年)11月
清水建設により、病棟4階建てを建築す。
1977年(昭和52年)
本館北にリハビリ棟を新設す。
1989年(平成元年)12月
竹中工務店により、外来病棟、手術室、入院病棟一部
2階建てを建築し、玉木病院本体を瓦町1番地
(好生堂跡地)に移す。
1990年(平成2年)
高気圧酸素治療装置導入す。
1991年(平成3年)11月
病床変更施行す。 (一般病床159床)
1999年(平成11年)5月
山口県救急医療功労者知事表彰授賞す。
九州大学医学部、久留米大学医学部、 山口大学医学部、
島根医科大学、産業医科大学、各教室とのご縁をもつ。
1999年(平成11年)12月
病床変更施行す。(一般病床50床、療養病床101床、計151床)
2001年(平成13年)
67歳にて病没す。
5代目 玉木英樹
1966年(昭和41年)12月19日~
玉木柚香
1975年(昭和50年)12月16日~
1992年(平成4年)3月
久留米大学医学部卒後、第二外科入局。
1998年(平成10年)1月
帰省、その跡を継ぐ。
2001年(平成13年)7月
院長就任。
2002年(平成14年)4月
3番館、療養病床12床を増築。
2007年(平成19年)3月
大正元年築造の病院旧館を解体。
2007年(平成19年)4月
久留米大学医学部環境医学講座大学院入学。
2009年(平成21年)5月
日本高気圧環境潜水医学会評議員就任。
2011年(平成23年)1月
大旗連合建築設計、竹中工務店により本館改築工事着手、
旧烏田家邸宅(玉木家本宅)を解体。
2011年(平成23年)3月
久留米大学大学院卒業、医学博士の学位授与。
2012年(平成24年)4月
病床変更施行。 (一般病床40床、療養病床111床、 計151床)
2012年(平成24年)6月
琉球大学医学部附属病院救急医学講座非常勤講師就任。
2012年(平成24年)10月
本館改築工事完了。
旧烏田家邸宅(玉木家本宅)は多目的室として復元、
日本庭園は保存管理する。
2013年(平成25年)5月
玉木病院創立100周年記念祝賀会開催。
山口大学医学部、九州大学医学部、久留米大学医学部、
産業医科大学、琉球大学医学部、各教室の御協力を受け、
地域医療に貢献せんとす。
過去の遺産と伝統を振り返り、現在を思い、
未来へのよすがとしてこれを記録に留める。
また、烏田家歴代の墓は萩、亨徳寺にあり玉木これを守る。